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浅草(あさくさ)は、東京都台東区の地名。浅草一丁目から七丁目までが置かれている。地理
江戸時代以前から東京随一の繁華街として栄えてきた。関東大震災では浅草台地の固い地盤で揺れによる被害よりも主に火災で焼かれた後、東京都の都市計画により道路拡張をはじめ新たに市街地化された。第二次大戦では壊滅的な被害を受けたが目覚ましい復興を遂げた。高度経済成長期以降は山手線沿線の池袋・新宿・渋谷などの発展により、東京都が制定する副都心(7ヶ所)として、上野と共に上野・浅草副都心を形成。現在も江戸の下町情緒を感じさせる街として賑わっている。
近隣には厨房で使用する業務用調理器具関連用品を取り扱う合羽橋道具街など個性的な商店街なども存在する。
ランドマーク
古くからの浅草地区のランドマークとして浅草寺山門である雷門(かみなりもん)が知られる。明治後期には、第六区に建てられた十二階建ての凌雲閣が有名となり、浅草十二階と呼ばれランドマークとして認知されていた。しかし、大正期の関東大震災で崩壊。昭和初期には西浅草に森下仁丹が広告塔を建設。仁丹塔の愛称で戦後も長らく親しまれたが1986年に解体された。1990年代以降には吾妻橋対岸の墨田区本所にあるアサヒビール本社ビルも、その屋上の特徴的なオブジェが浅草の風景の一部として認知されている。また、同じく対岸の墨田区押上に建設中の東京スカイツリーが街の背景に臨め、浅草の景観に彩りを添えている。

歴史

628年推古天皇の時代、この土地の漁師、檜前浜成・竹成兄弟が、隅田川で観音像を網で掬い上げ礼拝供養した。浅草寺一帯は太古の時代から浅草台地の微高台で現在の待乳山、弁天山、蔵前、鳥越神社付近などから陸地化が進み隅田川の河口近くで海の幸にも恵まれ、官道も通り、やや高台でもあって災害からも避難しやすい土地だったため町の発展が早かった。「吾妻鏡」の1181年(養和元年)の条に浅草の名が見える。古くから浅草寺の門前町として栄えていた。また江戸湊や品川湊と並んで、武蔵国の代表的な港である浅草の港が、石浜(現在の台東区橋場)や今津(現在の台東区今戸町)にあったとされる。また、隅田川は江戸時代に境目が変更される以前は武蔵国と下総国の境目であり、中世後期には浅草から石浜にかけて境目の城である石浜城が築かれていた(ただし、荒川区南千住に所在地を比定する説もある)。

江戸時代に浅草が発展した要因は、浅草御蔵(蔵前)に米蔵が設置され札差(株仲間)が登場してきたためと言われている。蔵前では、日本全国から集められた侍や江戸庶民たちの食用米、城で働く武士たちの給料としての米などを保管していた。いわば金蔵みたいなもので、これを守るために大勢の警備が配置され、下級役人が暮らしていた。
江戸時代、武士の給料は米で支払われていたため、武士たちのために、米を保管するだけでなく現金にも替えてくれる札差という商人が出てきた。札差は預かった米から手数料を引いて、米と現金を武士に渡していた。そして、現物で手元に残った分の米は小売の米屋たちに手数料を付けて売っていた。札差は武士と小売の両方から手数料を取るため莫大な利益が出た。さらに、儲かったお金を武士たちに利子を付けて貸していたため札差は大富豪が多く豪遊する場として、浅草の粋な江戸っ子文化が発展した。
また、両国を中心に蔵前商人は店を構えていたので、商人や武士たちの多くが浅草周辺に集まった。中でも浅草は江戸で最も人が集中するところで人・物・金が集まってきた。1657年(明暦3年)の明暦の大火の後、新吉原遊郭が移転してきた。1841年(天保12年)の天保の改革のひとつとして江戸市中に散在していた歌舞伎座(中村座、市村座、河原崎座)、操り人形の薩摩座、結城座などを現在の浅草六丁目一帯(丹波園部藩主、小出邸の跡地面積約一万坪)に集め、猿若町と名づけて芝居町とした。
札差は武士と共に新吉原や歌舞伎座を借り切りし豪遊(接待)したり、舟遊びをしたと伝えられる。当時、芝居小屋や吉原に出入りしては粋(いき)を競い、豪遊を行った町人を通人(つうじん)と呼んだが、中でも「十八大通」と呼ばれた人々がおり、その多くは札差連中であった。歌舞伎の演目「助六」のモデルとも言われている大口屋暁雨などが有名である。浅草の庶民文化、江戸の粋にはこのような背景がある。
明治時代には東京市15区の名前の一つに「浅草」が採用された。また浅草寺を中心とした地域を明治時代に公園化し東京初の都市公園である浅草公園となった。浅草公園を6つの区に分けたことから、浅草公園六区ともよばれた。なおこの言い方はその中で一番にぎやかだった地域である第六区のみを指す場合が多い。
明治時代に凌雲閣(12階)などが建てられ、江戸以来の繁華街として新たに演芸場や劇場等が建ち、東京らしい文化の発信地、歓楽街として知られるようになった。関東大震災以降の興行界は、松竹の進出が本格的となり戦前の昭和においては有楽町に進出した東宝と覇を争った。戦後は松竹歌劇団(SKD)の本拠地である国際劇場やロック座、フランス座などのストリップ興行で賑わった。 昭和に入り、戦災により一時期の繁栄の勢いが失われたが、戦後には千束地域には朝鮮マーケットが開かれ、浅草寺周辺をはじめ、田原町、蔵前、合羽橋周辺の旧浅草区の道路インフラ整備が進み、拡幅された碁盤の目をもつ街並みとなった。
テレビの普及に因り昭和30年代後半から六区にあった映画館が次々と閉館し、それらの煽りで昭和40年代に入るとめっきり人通りは減少した。しかし平成を迎え浅草サンバカーニバルや隅田川花火大会などの開催がテレビで取り上げられるようになると徐々に活気を取り戻すようになる。加えて地方から観光バスが来るようになり、また人力車などの観光ガイドなどが雷門周辺に現れるようにもなった。更には昭和を懐かしむ高齢の観光客が増加していることや、羽田空港・成田空港の両空港と鉄道で直結されるようになったこと、つくばエクスプレスの開通効果でマンション建設、飲食店の新規出店、雑誌やTV番組のグルメレポートで紹介された店目当てに訪れる人々が増えたこともあって平日でも賑わうようになってきている。そして外国人観光客は移り変わりの激しい銀座よりも昔ながらの佇まいを色濃く残す浅草を東京の名所として訪れる傾向が強くなり、宿は浅草地区を代表する浅草ビューホテルの需要が著しく高い。隅田川を隔てて望む東京スカイツリーが建設されるようになると隅田公園での桜まつりは史上空前の賑わいを見せた。

Wikipediaから引用(最終更新 2012年1月8日 (日) 12:58)