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東京国立博物館(とうきょうこくりつはくぶつかん)は、日本と東洋の文化財(美術品、考古遺物など)の収集保管、展示公開、調査研究、普及などを目的として独立行政法人国立文化財機構が運営する博物館である。また、社団法人日本工芸会の本部がある。
1872年(明治5年)に創設された、日本最古の博物館である。東京都台東区の上野恩賜公園内にある。本館、表慶館、 東洋館、平成館、法隆寺宝物館の5つの展示館と資料館その他の施設からなる。収蔵品の総数は11万件を超え、国宝87件、重要文化財622件(2009年3月31日現在)を含む。

沿革
草創期
1872年(明治5年)3月、その前年に設置された文部省博物局により、日本最初の「博覧会」が湯島聖堂大成殿(現在の東京都文京区湯島)で開催された。当時の広告や入場券には「文部省博物館」と明記されており、これが日本の「博物館」の始まりであった。東京国立博物館はこの年を創設の年としている。展示品は、翌1873年(明治6年)開催のウィーン万国博覧会への出品予定品が中心であった。当時の錦絵を見ると、会場にはガラスケースが所狭しと置かれ、書画、骨董、動植物の剥製や標本などが並べられており、展示品のなかでは名古屋城の金鯱(しゃちほこ)が呼び物だったようである。この博覧会は3月10日から20日間の会期を予定していたが、あまりの人気に入場制限をせざるをえないほどで、会期を再度にわたり延長し、4月末日まで開催された。総入場者数は15万人と推定されている。
1873年(明治6年)、「文部省博物館」は太政官正院の「博覧会事務局」(1872年設置)に併合され、場所も湯島から内山下町(現在の東京都千代田区内幸町)に移転した。この年は4月15日から3か月半にわたり、博覧会が開かれた。なお、この当時の博物館は動物、植物、鉱物などの標本も収集展示の対象であった。
1875年(明治8年)、「博覧会事務局」はふたたび「博物館」と改称され、内務省の管轄となった。「博物館」は一時「内務省第六局」と改称されたが、翌1876年(明治9年)、再度「博物館」に改称。同年、町田久成が博物館長に任命された。薩摩藩出身の官僚であった町田は、明治時代初期に博物館設置や文化財保護に尽力した人物である。東京国立博物館では彼を初代館長としており、博物館の裏庭には町田の顕彰碑が建立されている。なお、博物館の所管官庁は、1881年(明治14年)に農商務省、さらに1886年(明治19年)に宮内省へと変わった。
1877年(明治10年)、上野の寛永寺本坊跡地(後に東京国立博物館の敷地となる)で第1回内国勧業博覧会が開催された。これは当時の「富国強兵・殖産興業」の国策に沿って開催されたもので、この博覧会の展示館の1つである「美術館」は、日本で最初に「美術館」と称した建物として知られる。初代館長の町田久成は、内山下町の博物館は手狭であり、火災等の危険も大きいとして、博物館の上野公園への移転を陳情していたが、この年、太政官より上野移転の裁可を得た。
1881年(明治14年)、上野公園の寛永寺本坊跡に煉瓦造2階建の本館が完成。イギリス人建築家ジョサイア・コンドルの設計であった。この本館は、同年上野で開催された第2回内国勧業博覧会の展示館として使用された後、翌1882年(明治15年)3月から博物館の本館として使用されるようになった。4年前の第1回内国勧業博覧会の際に建てられた「美術館」の建物も新博物館の「2号館」として活用されたが、関東大震災で本館・2号館共に損壊し、現存しない。

帝室博物館から国立博物館へ
1889年(明治22年)、「帝国博物館」と改称、九鬼隆一が総長となった。この時、京都と奈良にも帝国博物館が設置されている(開館は京都が1897年、奈良が1895年)。当時の美術部長は明治時代の美術界の理論的指導者であった岡倉天心であり、アメリカから来た哲学者・美術史家のアーネスト・フェノロサも美術部理事を務めていた。この頃から美術系博物館としての性格が強まる。
1900年(明治33年)、当時東京・京都・奈良にあった各「帝国博物館」を「帝室博物館」と改称。「帝室博物館」の名称は1947年(昭和22年)まで使用された。この1900年には当時の皇太子(後の大正天皇)の成婚を祝福するため、上野の帝国博物館内に新たな美術館を建造することとなり、翌1901年着工、7年後の1908年に竣工し、翌1909年開館した。宮廷建築家片山東熊の設計になるこの美術館は表慶館と名付けられ、21世紀に至るまで博物館の展示の一翼を担っている。なお、森鴎外が総長に就いていた時代(1917年12月-1922年7月没)は、歳出が大幅に伸び、就任4年目で就任直前の2倍強になった。館内の構造物について「分類陳列」方法があらたまり、「時代別陳列」に変更された。また、正倉院の参観資格が緩和され、帝室技芸員や古社寺保存会委員や美術審査員などのほか、「学術技芸ニ関シ相当ノ経験アリト認メタル者」にも参観の道が開かれた。
1923年(大正12年)の関東大地震では、コンドル設計の本館のほか、当時存在した2号館、3号館が大破して使用不能となり、本館復興までの十数年間、陳列は表慶館のみで行われた。復興本館の建設は1932年に着工、1938年に開館した。これが現存する東京国立博物館本館(重要文化財)である。復興本館開館からまもない1940年には、「皇紀2,600年」を記念して「正倉院御物特別展観」が開催された。これは正倉院宝物(当時は「正倉院御物」)が一般に公開された初の機会であり、わずか20日間の会期に40万人以上が来場する空前の盛況となった。

第二次大戦以降
1947年(昭和22年)5月、新憲法公布の日をもってそれまでの帝室博物館は「国立博物館」と改称、所管は宮内省から文部省へ移った。「東京国立博物館」と称するようになったのは1952年(昭和27年)からである。国立移管後の初代館長は安倍能成である。
大戦後まもない1947年9月に機関紙「博物館ニュース」が創刊されている。同ニュース創刊号の第1面には「国民と博物館 古美術品は見直されねばならない」という論説記事が掲載され、大戦前の「帝室博物館」から国民のための博物館への転換姿勢が明確に示された。第二次大戦後の博物館は、新たな展示館(東洋館、法隆寺宝物館)の建設と収蔵品の増大によって平常陳列の拡充をはかるとともに、毎年多くの特別展や特集陳列を実施してきた。中でも1965年(昭和40年)のツタンカーメン展、1974年(昭和49年)のモナ・リザ展などは大きな反響を呼び、社会的な話題となった。創立100周年の1972年(昭和47年)には「東京国立博物館所蔵名品展」、創立120周年の1992年(平成4年)には特別展「日本と東洋の美」が開催され、館の歴史に関わる資料なども併せて展示された。
機構面では、1950年(昭和25年)、文化財保護委員会が設置されるとともに東京国立博物館は同委員会の附属機関となった。同委員会が1968年(昭和43年)に廃止され、これに代わって文化庁が新設されたことに伴い、博物館は文化庁の附属機関となった。中央省庁再編に伴う独立行政法人制度が発足した2001年(平成13年)には、独立行政法人国立博物館の管轄下に移り、2007年(平成19年)に独立行政法人国立文化財機構の施設となる。
新館の建設
第二次世界大戦後の東京国立博物館では、新たな展示館の建設が相次いだ。1962年(昭和37年)には構内南西隅に法隆寺宝物館が竣工し、2年後の1964年から一般公開されるようになった。これは、1878年(明治11年)に廃仏毀釈で困窮した法隆寺に皇室が一万円を下賜し、かわりに献納された宝物300余件を収蔵展示するためのもので、その建設は長年懸案とされていたものであった。なお、この時の建物は30年ほど使用された後に取り壊され、1999年(平成11年)にレストランや資料室を備えた新・法隆寺宝物館が開館している。1968年(昭和43年)には構内東側に東洋館が開館し、日本以外のアジア地域の美術品はこちらへ移された。1984年(昭和59年)には構内西側、表慶館裏手に資料館が開館し、従来公開要望の多かった、館所蔵の図書、歴史資料、写真資料などが研究者に公開されるようになった。
博物館においては、平常陳列とともに特別展の開催も重要な事業の1つである。しかし、大規模な展覧会の場合は、本館の平常陳列を一時撤去して特別展会場とせざるをえず、恒久的な特別展会場を含む新館建設の必要性が論議されてきた。このため、構内の中長期整備計画の中でその建設地が検討され、本館西側にあった別館(大講堂などがあった)と北倉庫を取り壊して新たな展示館を建設することとなった。特別展会場、考古資料展示室、大講堂などを含む新展示館は平成館と名付けられ、1999年に開館した。

Wikipediaから引用(最終更新 2012年2月7日 (火) 16:52)