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アメヤ横丁(アメヤよこちょう)は、日本の一地名。東京都台東区のJR東日本・御徒町駅 – 上野駅間の山手線の高架橋西側と高架下に沿った長に伸びる商店街を指す。 正式名称はアメ横商店街連合会(アメよこ しょうてんがい れんごうかい)であるが、アメヤ横丁のほか、アメ横(アメよこ)、上野アメ横(うえのアメよこ)、アメ横商店街(アメよこ しょうてんがい)などと通称されることが多く、商店街の看板にも「アメ横」と表示されているものがある。
街並みの規模は、およそ400メートル。現在(2010年(平成22年)時)、400軒以上の店舗で構成されている。

地名の由来

名称の由来としては、戦後、飴を売り捌く店が当時200件以上あり、「アメヤ横丁」に。そしてその後多く日本に残っていたアメリカ軍の兵士がアクセサリーや本国から持ち込まれてきた安値のテレビや冷蔵庫などの家電を売るようになり「アメリカ横丁」に。そして2つの名を合わせて「アメ横」となった。
当初のアメ横

元々は民家や長屋がひしめき合う下町特有の住宅街で国鉄の変電所が在ったことから空襲に因る被災を避けるため強制的な建物疎開が行われた。しかし東京大空襲に因って周辺一帯は焦土と化し、第二次世界大戦後はバラック建ての住宅と店舗、そして屋台に混ざって露天で商売をする人々が目立ち始めるようになる、これらは国に許可を受けない闇市と呼ばれた。十分なモラルがない中で、様々な人間が多種多様な物資を売買しており、それらに群がる愚連隊や暴力団などが入り乱れ白昼の発砲事件なども起きその度にMP(米陸軍憲兵)と警察が対処に当たっていた。手を焼いた当局が近くの実業家・近藤広吉に頼み込み、80軒の商店を収容した「近藤マーケット」を作らせた。近藤マーケットは出所の怪しい者を排除して出店させたため、アメ横はようやく正常化へと向かっていった。なお、東上野に現在も残る「キムチ横丁」は、このときアメ横から移転した(多くは非合法商店を営んでいた)韓国人・朝鮮人が作ったものである。
時は流れ、1982年(昭和57年)12月21日に旧・国鉄上野変電所跡にアメ横センタービルが完成、ほぼ現在の形となっている。
アメ横の今

現在は食品(主に魚介類や乾物)、衣類、雑貨、宝飾品などの店が業種ごとに集中している。特に年末には正月用の生鮮食品などを買い求める人たちでごった返し、普段は商店街の端から端まで歩いて十分程度のところがこの時期は数十分を要するほどの様相を呈す。この様子は報道番組やワイドショーを中心としてテレビやラジオで年の瀬の風物詩として中継される。年末が近づくと多くの店が正月用の食品を取り扱うようになり、洋品店なども店を閉めて間貸しするため、通りは大きく様変わりする。
魚介類などの生鮮食品を中心に扱う店舗が集まっている場としては他に築地市場があるが、築地市場そのものは東京都管轄の公営であること、築地市場は業者向けの卸売の量販を主体とし、価格設定も基本的に値引き交渉をしないことを前提としている。一方のアメ横は一般消費者向けの小売も行い、店員との交渉次第で安く買えることが特徴である。
1980年代に入り、核家族化(年末に地方から帰京する子供の数が激減した)が進んだ事に伴い鮮魚を扱う店が減少していった。代わって若者向けのスポーツ用品店が1990年代に目立って増えた。また、アメ横センタービルの地下は中国やエスニックの食材が売られており、多くの中国人、インド人などが買い物に訪れるため、店員も中国人が多く、中国語が飛び交っている。
<日本一の商店街> 年末には毎年一日50万人の来客があり、近年買い出し以外に日本各地から観光客も押し寄せて賑わいをみせている。(普段は一日10万人程度) 特徴としては他の日本各地にある商店街と違って地域密着型ではない。一番アメ横と比較されるのがソウル市にある南大門市場である。
<アメ横の特徴> 魚屋の店先でダミ声で鮭やマグロを売っている場合、たいてい値引き対象の品である。その他の魚に関しては表示どおりの価格で取引される。 普通客の方がいくら言い値を言っても相手にされない。夕方近くなると300円の物を二つ500円で売ったりしている。年末になると多くの 正月用品一色になる。用品や雑貨などを売っている店は休業し店先を貸すのである。たいてい鮮魚などは普段の二倍近くになり、割引きで取引される。 果物なども傷物に限り店頭に半値以下で並ぶ以外安くなることはない。化粧品など昭和時代定価販売でメーカーの物は取引されていたがアメ横では2割引で売られていた。

Wikipediaより引用(最終更新 2011年12月23日 (金) 09:42)